2022年12月25日 荒田神父様メッセージ

ヨハネ1・1-18

 今日読まれたヨハネ福音書の1章は、私が所属する神言修道会にとって、一番大切にされている箇所であります。というのも、神言修道会の創立者である聖アーノルド・ヤンセンが子供の頃から、両親に一番聞かされて、熱心に祈っていたのが、このヨハネ1章であり、ヤンセンの父親は常日頃から「あらゆる祈りの中で、最も力強い祈りだ」と家族に教えてきたと言われています。

 言葉というものが、どのようなものか、というのは、まさに今日の福音書に書かれている通りであります。言葉は、神であり、命であり、私たちのために生まれたイエスそのものです。イエスは受肉したみことばである、と私たちは何度となく教えられていますが、神であり、命である言葉が、人間と同じ姿で、この世に生まれてきてくれた、このことを私たちは理解して、主の降誕の日に、それを祝っているわけであります。

 言葉、というものは、私たちにとっても、通常の伝達手段であり、意思疎通を行うに大切なものです。同じように、神が私たち人間にその意思を伝える、そしてそれに応答するのもまた言葉であります。聖書、あるいは人を通して、私たちは神のメッセージ、意思を受け、それに対して祈りによって答える、これがキリスト者として最も大切な姿勢の一つです。しかし、それだけでなく、教会の神父さんや特に宣教師と呼ばれる人々が大切にしていることがもう一つあります。それは、私たちが受けたみ言葉、そこから得たメッセージを、多くの人と分かち合うことであります。私たちが聖書や、福音などから得るメッセージというのは、み言葉であるイエスそのものを私たちの中に生まれさせているのだ、と言えます。ですから言葉が肉となって私たちの間に宿られた、というこのヨハネ福音書の一文は、イエスがこの世に人間として生まれたことと同時に、私たち一人ひとりの中に、言葉を通して常にイエスが生まれている、ということでもあるのです。インマヌエルという「神は我々と共におられる」というイエスに与えられた名は、まさに私たちの中に生まれて共にいるイエスを言い表している名であります。そして、その宿った言葉であるイエスを多くの人と分かち合うことで、より一層自分の中にイエスが、み言葉は浸透していきますし、またそれだけ多くの人の中にイエスが宿る、ということに繋がるわけです。それが宣教であり、私たちキリスト者みなが受けた使命でもあります。ですから、この主の降誕の祝い、というのは、この世にイエスが肉となって宿り生まれたことを祝うと同時に、常に私たちの中に生まれているイエスを実感し、皆でそのことを分かち合うことであると言えるのです。この事を、今日だけでなく、信仰生活の中でいつも心に留めていたいものであります。

 主の降誕を迎えて、私たちはこのヨハネ福音書の1章から、この世に、そして私たちの中に宿るイエスをより理解する機会が与えられました。この祝いを皆で分かち合うと共に、そのみ言葉への私たちの応答を、しっかりと祈りの中で捧げ、主の降誕の贈り物とすることが出来るよう、このミサの中で、特に意識しながら、祈りを続けたいと思います。