2022年8月15日 ボスコ神父様メッセージ

2022 August 15th. Monday.聖母の被昇天(Assumption of Blessed Mother.)

 

ルカによる福音:1・39-49

 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子が躍(おど)った。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。

「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。わたしの主のおかあさまが私のところに来て下さるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子は喜んで踊りました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

そこで、マリアは言った。

「私の魂(たましい)は主を崇(あが)め、私の霊(れい)は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めて下さったからです。今から後、いつの世の人も、私を幸いな者と言うでしょう。力ある方が、私に偉大なことをなさいましたから。」

 

分かち合い:エリザベト様とマリア様から学び、神様への強い信仰の賜物を祈りましょう。(Learning from Elizabeth and Mary, let us pray for the gift of strong faith in God.)

 

 皆さん、今日、私たちは神の母である、聖母マリアの被昇天の饗宴(ひしょうてんのきょうえん)を祝(いわ)います。 かなり適切(てきせつ)に、今日の福音書の朗読では、神の摂理(せつり)への深(ふか)い信仰でよく知られている、エリゼベトとマリアについて聞いています。  読書(どくしょ)を振(ふ)り返(かえ)って、エリザベトとマリアの、強い信仰について、考えてみましょう。

  まず、エリザベトの信仰について、福音書から次のように、聞くことができます。

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの、家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子が躍った。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。わたしの主のおかあさまが私のところに来て下さるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子は喜んで踊りました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」 

ですから、エリサベトは、マリアが、神様の母であると、本当に信じていました。 言い換(か)えれば、エリサベトは、マリアの信仰に、触発(しょくはつ)されています。 ですから、 エリサベトは、信仰を強めるために、神に謙虚(けんきょ)に、祈っています。エリサべトの、模範(もはん)から、学びながら、自分の信仰、もっと、強くなるように、祈りましょう。 

 第二に、福音書で、次のように、聞いている、マリアの信仰について、考えてみましょう。 

そこで、マリアは言った。「私の魂(たましい)は主を崇(あが)め、私の霊(れい)は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めて下さったからです。今から後、いつの世の人も、私を幸いな者と言うでしょう。力ある方が、私に偉大なことをなさいましたから。」

 ですから、マリア様はいつも、自分を、主の謙遜(けんそん)な、はしため、だと思っていました。 マリア様が、神様の母に、なるとき、彼女(かのじょ)の謙遜さ(けんそんさ)は、報(むく)われます。 エリサベトとマリアの、信仰から学び、神への強い信仰の賜物(たまもの)を祈りましょう。この立派な教から学びながら、私たちの毎日の生活について、次のように、考えてみましょう。

 毎日の生活の中で、私達も、イエス様の言葉を避(さ)け、あるいは、イエス様の、ことばから、離(はな)れてしまって、お互いに、愛(あい)と、奉仕(ほうし)をおこなわないで、あるいは、神様をよく信じることなく生活したときが、あるかもしれません。このことについて、回心(かいしん)しながら、エリサベトと、マリアの模範から、学びながら、神様を、よく信じながら、お互いに、愛(あい)と、奉仕(ほうし)しながら、生活するようにしましょう。こういうような、恵(めぐ)み、神様から、頂(いただ)けるように、このごミサの中で、ともに、祈りましょう。

 また、今も、全世界(ぜんせかい)で、たくさんの人達が、新型(しんがた)コロナウイルスの、影響(えいきょう)に、大変(たいへん)苦しんでいます。難しいことですが、この苦しみの中にあって、神様の愛する子供(こども)である、全(すべ)ての人々が、救(すく)われるには、どうすれば、よいでしょうか。このことについて考えながら、病人(びょうにん)の、回復(かいふく)のために、共(とも)に、祈(いの)りましょう。