「受難の主日」
皆さん、今日から「聖週間」が始まりますが、その初日の日曜日は、「受難の主日」と「枝の主日」という二つの意味があります。今日のミサの最初の部分は「枝の主日」、あとは「受難の主日」になります。
皆さん、イエス様の時代に帰ってきてください。何千人もの人々がシュロの枝を持って、エルサレムの町に、王として来られるイエス様のを待っています。イエス様がエルサレムの門を通られると、多くの人々は 歓声を上げ、一眼でも良いからイエス様のお顔を見たいと、波のように押し寄せています。町全体が、感激と喜びで満ち溢れていました。しかし、イエス様は、人々の歓喜の背後に、イエス様を罰する人達の意図があることをよく知っていました。
イエス様は全てを受け入れられて、ゴルゴタの丘で十字架につけられて亡くなりました。ですが三日目に御復活されました。これが「イエス様の御復活の神秘」です。シュロの枝によって迎えられたイエス様と死からの復活を祝うのが、今日の「受難の主日」となります。この受難の物語をとおして、ぜひイエス様の苦しみ、十字架の道をたどるイエス様の神秘を黙想し、祈りを続けていただきたいと思います。
教会の伝統では、この聖なる一週間は沈黙,静かな時を持つということを私たちに勧めています。私達もイエス様を平和の王として皆さんの祈りの中にお迎えしてはいかがでしょうか。この聖週間の間にイエス・キリストにある神の御心を感じながら、今神様が何を私たちに求められているのかを、考えてみましょう。私達司祭団は、いつもこの教会にいます。困ったことがある時、悩みや悲しみで辛い時は、気軽に声をかけてください。私達がいつも共にいることを、覚えていて欲しいと思います。
毎日コロナ感染や戦争や飢餓のニュースで、私達の心は不安定で、先の見えない日々が続いています。このような状況の中で、神の特別な計らいを願わずにはいられません。マスクをしないと話をしてはいけない。大声で話してはいけない。右を見ても、左を見ても、いけないことばかりです。今、私達は新しい生き方を模索している真っ只中にいます。それゆえに、私達はさらに信仰を深め、心の底から、イエス様の御復活を祝い、良き人間として生きていきたいものです。
一日一日生きていることを神に感謝し、その幸せを分かち合う。イエス様の御復活の神秘があったからこそ、今私達がここに居ることを再度感じていただきたいと思います。