2021年9月19日 荒田神父様メッセージ

2021年9月19日 荻窪教会

 

マルコ9・30-37

 初っ端から個人的な話をして申し訳ないのですが、今日の福音の35節でイエスが語る「いちばん先になりたい者」についての言葉は、私が人間として最も心掛けるようにしながら、しかし最も実践するのが難しいと感じる教えであります。皆さんは、このイエスの言葉をどう受け止めるでしょうか。

 弟子たちはカファルナウムへの道すがら「誰が一番偉いか」ということについて議論していました。人間は、どうしても自分と自分以外の人との間に、上下や優劣を付けたがるものです。弟子たちも例外ではありません。イエスはそんな弟子たちに対し、人間の醜さの部分を叱ることはせず、むしろ、議論していた内容への解答を示しました。その解答とは、いちばん先になりたい者、つまり他人から一番偉い人だと思われたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になるべきである、というものでありました。

 私は小学生、いや幼稚園の時分から、人前に立つことや目立つことが大好きで、そうした機会があれば何にでも手を挙げ、とにかく自分を売り込んでいた記憶があります。それは一体何のためだったのでしょう。自己顕示欲や承認欲求、深くは考えていなかったにせよ、突き詰めれば、そうした「他人に認められたい自分」という姿が幼いながらにあったのかも知れません。私たち人間は、特に社会的地位の高い人や、特定の職業にある人を「偉い」と考えます。それは、その地位や職業そのものに対する尊敬という意味もありますが、それ以上に、そこに到達するまでに重ねた努力や業績があるからこそ「偉い」と言えるものです。歴史上の偉人と呼ばれる人物たちも、偉人であるから何かを成し遂げたのではなく、何かを成し遂げることが出来たからこそ、偉人と呼ばれるわけです。先述の通りイエスの教える「いちばん先」つまり本当に偉い人とは、すべての人に仕えることの出来る存在であるわけですが、それは強い自己顕示欲や承認欲求を持ちながら出来ることではありません。ましてや、見返りを求めること、あるいは「やってあげている」といった恩着せがましい心をもってしては到底成し遂げることは出来ません。それではどうすれば良いのでしょうか。イエスはもう一つ今日の福音で教えています。イエスの名のために子供一人を受け入れる者は、イエスを受け入れることになる、これが答えです。子供、というのは社会の中で弱い立場にある人全てを示しています。そうした人々を心から受け入れ、認め、助け、仕えることが出来る人こそ、最も先になる人であり、最も偉い人であるのです。偉くなりたい、つまりはみんなに自分のことを心から認め、敬って欲しいならば、まずは自分が他人を認め、敬う心を持たなくてはならないのです。イエスはこの事を今日の福音を通して私たちに教えているのではないかと思います。

 偉い人、というのは、自分のことを見るよりも、他人のことを見ることの出来る人物です。私たちも一人のキリスト者として、このイエスの教えをしっかりと心に刻み、何においても自分が、自分が、という姿ではなく、他人に寄り添い、支えてあげられるような姿勢を示すことが出来るよう、その力と恵みを祈り求め続けて行きましょう。