2021年8月22日 荒田神父様メッセージ

ヨハネ6・60-69

 

 先週の聖母被昇天の福音箇所を除き、ここ数週間の主日では、ヨハネ福音書におけるイエスのパンを増やす奇跡や、イエス自身が命のパンであるという教えが読まれてきました。今日の箇所は、そうした一連の出来事を目の前で見て来た弟子たちの多くが、イエスの教える言葉は到底受け入れられないものだとして、離れ去っていく場面であります。

 2週間前に読まれた箇所がちょうど今日の場面の直前の箇所に当たりますが、その時は、イエスの教えを聞いていたユダヤ人たちから、その教えに対する非難がありました。弟子たちも勿論、元々はユダヤ教徒ですから、このようなイエスの教えに反発する描写を挿入することで、ヨハネ福音書はキリスト者とユダヤ教の厳しい対立という背景を表現しているのだと思います。

 今日の箇所で衝撃的なのは、66節の「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」という一文であります。他の福音書の中に、多くの弟子たちがイエスの教えや言葉に反対して離れていく、という箇所は存在しません。こうした出来事は、現代を生きる私たちにとっても他人事では無いと思います。人と人との関わりの中でも、ほんの小さなすれ違い、意見の相違、たった一言の言葉、こうしたもので簡単に関係が崩れてしまうことがあります。それまで、長い時間、互いの信頼や友情、愛情を育んできたとしても、ひとつのきっかけで、人間は簡単にその関係を断ち切ることが出来てしまうのです。信仰の部分に話を戻しますが、この離れて行った弟子たちと同様に、私たちも、自分が信じている教え、信仰から離れてしまいたいと思う時が来るかも知れません。そこにどのような問題が生じるかはわかりませんが、そうした時こそ、最後までイエスから離れずに信じることをやめなかったペトロたちの姿、そしてペトロの「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」という言葉に支えを求めたいものであります。ペトロたちは、イエスの教えや言葉を信じるとともに、イエスという一人の人間との繋がりを強く持っていました。だからこそ、理解すること、受け入れることの難しい教えや言葉があったとしても、イエスその人から離れることは無かったわけです。私たち一人ひとりも、他の人との関わりにおいて、様々な問題が発生する中で、それまで築いてきた繋がりを改めて思い返し、守っていく意思が大切であると思います。同じように、信仰の面では、自分自身とイエス、という繋がり、関わりをどれだけ大事に思えるかが肝要であるわけです。このことを、今日の福音箇所から受けるメッセージとして心に刻み、私たちの生活に活かしていきたいものであります。

 まだしばらくの間、皆で教会に集い、主日を祝うことが出来ない状況にありますが、こうした時にも、自分とイエスとの繋がりを強く意識し、一人のキリスト者としての信仰をより強固なものとしていけるよう、祈りましょう。私たち司祭団も皆様のために祈り続けます。