2021年8月1日 アンディ神父様 メッセージ

「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は

決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」

 

 皆さん、今日の福音書は先週の続きになります。イエス様は5つのパンと2匹の魚で、5000人の人々をお腹いっぱいにするという奇跡を行なわれました。そして、満足した群衆はカペナウムに向かうイエス様の後を、ひたすらついてゆきました。

 彼らは自分たちが食べたパンや魚がどこから来たのか全く理解できませんでしたが、このような奇蹟をおこす人は、自分たちの願いをかなえてくれる、苦しい生活を満たしてくれるかもしれないと期待し、もしかしたら、長い間待ち続けた”モーセのような預言者”だと思ったかもしれません。しかしイエス様はそれを良しとはされませんでした。

 イエス様は「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物の為に働きなさい」と群衆に仰いました。これは、自分の願いや欲を満たすために働くのではなく、神様の求められること、つまり、永遠の命を与えられるために、働きなさいということです。そして、イエス様を信じることこそが、永遠の命につながる道であると、言い切っておられます。何か良いことを積み上げていけば、自然に永遠の命に至るのではありません。イエス様を信じ切ることこそ、神様のなせる業(わざ)です。私たちに求められているのは信仰なのだと思います。

 確かに、私たちは、無限大の富を持つことが出来ます。しかし、その富を持つために、注意することが2つあると思います。1つ目は、その富は神様からの贈り物であり、感謝をしなければならないということ。2つ目はその富の所有者(しょゆうしゃ)は神様であり、その富は神様の栄光の為に使われることが望ましいとされています。

 今日の福音書でも、イエス様は、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」と仰いました。皆さんもご存知のように、これは、この世でイエス様を信じている人は、決して空腹を感じないという意味ではありません。イエス様の命のパンとは、永遠に心を満たす命のパンという意味です。そして、そのパンを頂くことによって、私たちは、心を強くして、様々な人生の嵐に立ち向かうことができるのだと思います。

 私たちは常に更なるものを求めて生きています。あれが無い。これがあればもっと幸せになれる。でもそれは物質的なことであって、もっと大切なものがあるはずです。私達は、色々な欲望から解放されて、イエス様の命のパンによって養われて生きることこそが信仰です。

 信仰というものは、決して心の中だけの事ではありません。実際に一日一日を、何を目的に、何を幸せだと思い、何を希望として、何を目指して生きるのかを、もう一度改めて考えてみてはいかがでしょうか。人生の最高の幸福とは、イエス様と共に生きるということです。誠の命のパンをいただき、永遠の命を与えていただけるよう、信仰生活を続けていきましょう。

 

アンディ神父