2021年6月13日 ビジュ キシャケール神父様メッセージ

年間第11主日

 

マルコ4:26-34

 

 今日は年間第11主日を迎えています。コロナ禍でミサを制限されている中私たちは、どう信仰生活を深めて行けばいいのか戸惑うことも少なくはありません。そのような中で、明るいニュースがあります。それは、ワクチンの接種はだいぶ進み、緊急事態宣言が延長されたため、感染者の数も減ってきているということです。さて、今日の福音はイエス様が神の国について語っています。種まきの話、からし種の話は今日の福音の朗読になっています。おそらく、イエス様はこのような話をなさったことにはそれなりの背景もあります。話によると、イエス様は人々の想像よりも、違う立場をいつも取っていました。通常の人に、中々理解しがたいこともあったでしょう。今でも、勇気がいるような行動をイエス様は堂々となさっていました。コロナ禍で感染を恐れて、様々な活動を制限している私たちですが、イエス様は今、この状況なら何をしたでしょうかとずっと考えてきました。普通の私たちが考えることも、あるいは行動に移すこともできないような、でも当たり前のような、人に愛情を注ぐようなことをなさったことでしょう。

 福音の中のイエス様のたとえ話は、きっとイエスに対する批判や疑問に答えるために語られたことでしょう。イエス様にとっては、神様のことをご自分の行動、生き方を通して示していますが、それは、人々にとっては、タブーとされていたような行動でもあったのです。このような人々、特に偉いとされているファリサイ派の人々や律法学者たちの『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』という不平に応えるためにイエス様がなさった有名な話、それは、「見失った羊」「無くした銀貨」「放蕩息子」という3つのたとえ話です。これらのたとえ話は、イエス様がご自分の行動の意味を解き明かし、何が神のみ旨にかなうことであるかとはっきりと示すためのものです。 同じく 今日のたとえ話は、一般論として神の国が最初は小さいが、いつか大きくなるということを教えているのです。イエス様は社会のごく知られていない、あるいは、だれも関わりたくない罪人や病気の人々と関わり、それこそが、この神の国の始まりとしての小さな始まりであるとイエス様が言いたかったのでしょう。 

 「確かに神の国と言っても何が神の国かと思うようなこともあるかもしれません。それでも、それは種なのです。しかし、種が条件満たせると大きなものへ成長していき、実りがもたらされる」のです。このようなたとえ話を通して、人々に神のことに、あるいは神の国のメッセージに対する疑問に答えていたのです。

 イエス様のたとえ話を今の私たちの生き方に置き直してみることが重要です。わたしたちの現実の中で、みすぼらしく、弱々しく、こんなのでは何にもならないと思われるような現実があるとき、それでもそこに神の国の「種」を見ていくことができるならば、わたしたちの現実に対する見方は変わっていくはずです。コロナ禍でイエス様のような行動はなかなかできない私たちですが、自分なりに、信仰を深め、神の国を自分の生き方の中で見いだせるように心がけましょう。

  Biju Kizhakkel(荻窪)