2020年7月5日 ビジュ・キシャケール神父様メッセージ

第一朗読  ゼカリヤ9・9-10
第二朗読 ローマ8・9、11-13

福音朗読 マタイ11・25-30
 25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。27すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」


分かち合い

 今日の福音にある「疲れた者、重荷を負う者」を「休ませてあげよう」という言葉は今、様々なことで不安の中にある(新型コロナヴィルス、それに伴う景気悪化、人間関係、気象変更)人々は、待ち遠しい言葉ではないでしょうか。出会う人の多くからは今の社会のあり方を不安に思い、心と体が疲れていると言われることがあります。これは、多くの方々が感じていることでしょう。夫婦にとってはお互いの信頼関係、子どもにとっては急変する現代社会との調和、どの環境においてのも人間関係を悪くする様々要因から心を休ませたい人は多いと感じています。

 

 イエス様の時代も同じようなことがあったことでしょう。社会の「偉い人たち」ラビーやファリサイ派の人々が、自分たちが偉く見られることを好み、人々にはたくさん苦労かけていたことでしょう。そして、貧しい人々、病気の人々、罪びとの人々がこの「偉い人々」に近づくことができなく、むしろ、除外されていたのです。そこで、イエス様はこの「偉い人々」と違って、貧しく身分が低い者、特別な資格や地位がない人であることを実際の生き方を通して人々に伝わり、イエス様の言葉に伴う行動を通して安心して近づくことができたのでしょう。

 

 今日の福音にある「くびき」は荷車や農具を引かせるために、2頭の牛あるいはロバを横につなぐものです。牛やロバにとってくびきは軽いものではありません。しかし、イエス様は、ここでこのくびきを2頭の牛やロバにつけるものであることを前提に話をしているのです。2頭であれば、くびきは負いやすいものとなるのです。そこでイエス様は「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」と言うのです。生活における様々なくびきは、イエス様もともになって負うのです。十字架を見て感じていただきたいのは、十字架のイエス様は今も、「わたしはあなたの重荷を共に担う」とわたしたちに語りかけてくださっているということです。

 

 福音箇所の最初にある知恵あるものや賢いものとは当時の意味では、指導的な立場にある人々「偉い人々」でした。日本では政治家を「先生」と読んでいます。しかし、政治家の中で、本当の「先生」はどれほどいるのでしょうか。みなさんの一票をいただいて、代表になるのですが、最近のような、票を集めのために賄賂を渡して「先生」になり、人を踏み台にする人もすくなくないです。

 

 イエス様は自分が言うだけではなく、実現する方です。本当の先生とはそのような方ではないでしょうか。言うだけではなく、自分の生き方を通して、教える人は、本当の先生です。

 

 自分の立場を利用して、「偉い人」として生きていく人はたくさんいます。その中には司祭も含まれるかもしれませんが、すべてを人に任せて、指一本も動かそうとしない、地位だけを好み、そのような生き方しかできない「偉い人々」がたくさんいます。「ご苦労様」と言いながらいかに自分が相手のことを理解しているかのようなふるまいは、「偉い人々」の口先だけの行動です。

 

 日々の生活の中で、庶民的に、人々と一緒に汗と涙を流す人こそが、イエス様のように重荷をともに担う先生です。どの立場にいても、人々の苦労を理解し、ともに担う人になれるよう勇気とめぐみを祈り求めましょう。