荻窪教会の皆さんへ 2020年4月5日

荻窪教会の皆さんへ

 

新型コロナウイルス騒動の中、気がつけばもう聖週間です。本来なら、聖週間の典礼を通して、私たちに約束されている救いに心を向け、神への信頼のうちに日々の生活を歩んでいく決意を新たにするわけですが、今年はかなり様子が違うので戸惑うばかりです。こんな時こそ、荻窪教会に属している意識、今この時、荻窪教会の人たちはどうしているだろうか、キリストを通して、また荻窪教会を通してご自分との関わりに招かれている神の思いもしっかり受け止めましょう。

 

聖週間にあたり、荻窪教会の皆さんに思い起こしていただきたいことがあります。昨年の典礼の暦はC年でした。C年の日曜日の福音は、主にルカ福音書から朗読箇所が選ばれます。しばしば説教の時に、ルカ福音書は、9章51節からイエスはエルサレムへの旅を始める構成になっていること、エルサレムでイエスを待ち受けているのは「十字架」であること、旅の途中でイエスは自分を待ち受けている「十字架」を受け入れる準備をしていくので、9章51節からのエピソードは「十字架」という切り口で読んでいくことが大切であることを話しました。そして来年の聖週間、ルカ福音書をテキストに見てきたイエスと共に過ぎ越しましょうと呼びかけました。しかし、その望みは打ち砕かれました。人間の知恵では「打ち砕かれた」と理解しますが、神様は決して「打ち砕いた」のではないのでしょうから、どんな形で、神様が計らってくださるか、楽しみにして待ちましょう。

 

聖週間の典礼を思い起こしてみます。受難の主日に「枝」を手に集まった同じ人が、復活徹夜祭には「光」を手にしています。受難の主日の枝の行列の時には賛歌が歌われますが、復活徹夜祭の光の行列の時には沈黙です。光を手にしたキリスト者が聖堂に入って歌われる賛歌が「復活賛歌」です。天上の教会の礼拝と地上の教会の礼拝が一致していることを表す荘厳な場面です。

 

聖週間のクライマックスは、聖金曜日(主の受難)の十字架の礼拝です。十字架を前に「主よ、あなたを十字架へと追いやったのは私です」という答えを求められる場面です。神が私たちキリスト者に求めていることはただ一つ「主よ、あなたを十字架へと追いやったのは私です」という宣言です。その私を、神はイエスの十字架を通して救われる方です。その同じ信仰に結ばれているキリスト者との関わり、具体的には荻窪教会での信仰生活を大切にしてまいりましょう。

 

実際の聖週間の典礼を荻窪教会では行えませんが、世界のキリスト者と心を合わせ、主の過ぎ越しにあずかりましょう。良いご復活を。ごきげんよう。


2020年4月3日 荻窪教会管理者  浦野 雄二